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2026.09

アーティスト・ステイトメント

違い

「違い」を分かっていないことがよくある。ろくに観察をしていないとか、単なる知識不足だとか、集中していないとか、ほとんどはそんな他愛のない理由なんだろうと思う。だから似たようなことに感動したり、初めてのことを見過ごしたりもする。「違い」に気がついても忘れてしまうことが多く、タチが悪い。

そうやってよく分かっていないまま、「違い」とすれ違いながら日々を過ごしている。

制作

私たちは、経験したことのすべてを捉えなくても、それを一つのまとまりとして受け取り、覚えている。十分には分かっていないが、何であるかは分かる。その二つは矛盾せず、同時に成り立っている。

引っ掛かったことは、考え続けていなくても残っている。制作では、抜け落ちたものを補うのではなく、そのとき起きていたことと、形の働きを接続し、経験を辿り直す。何を残し、どの形を用いるかという選択から、作品を組んでいく。

2026

制作背景と作品説明

認識と記憶

絵画を学び、自分自身の表現について考え始めた頃、それまで当然のように行っていた「対象を見ながら描く」という方法そのものに疑問を持った。そこで、日頃目にする街角や行き交う人々を、家に帰ってから記憶だけを頼りに描いてみた。

しかし、知っているはずの風景を、描き起こせるほどには覚えていなかった。「知っている」ことと「覚えている」ことは同じではない。この経験をきっかけに、ものをどのように認識し、それがどのように記憶されているのかを、描くことを通して辿るようになった。

描き切らない

私は、対象を一つの明確な像として描き切らず、どこかに確定しない状態を残したいと考えている。

《すもう》では、輪郭や色面の境界にグラデーションを用いる。斜め後ろから見た力士たちは、まず「力士」という集団として認識される一方、近づけば個々を識別することもできる。

《ランタンのオブジェ》では、同じ図像を重ねることで生じるずれや歪み、コピーを繰り返したときのような像の劣化を用いている。対象によって方法を変えながら、「描き切らない」「言い切らない」部分を画面に残している。

覆う

北海道を旅した際、滞在中に撮影した写真データを帰宅後に失った。風景をカメラを通して経験していた私にとって、写真を失うことは、その風景を経験したという感覚まで失うことにも思えた。実際に目の前にあったはずの風景から、自分が遠く離れてしまったように感じた。

その距離を確かめるように、まず北海道を象徴する木彫りの熊を厚い絵具で覆った。その後、より本質的にこの問題を扱うため、対象を恐竜のフィギュアへと移した。誰も実際の姿を見たことがない恐竜は、想像によってつくられた像を私たちが共有している存在でもある。

既製の像を絵具で覆うことを繰り返しながら、経験したものと自分の中に残るイメージとの距離を辿っている。これらの立体作品も、私自身は「絵具を塗る」という行為から生まれた絵画として考えている。

見ることは変化する

ローマで数多くの彫像を見た。初めは一つひとつに集中し、キャプションを読みながら見ていたが、鑑賞を重ねるにつれて、初めて見るはずの像さえ「知っているもの」のように扱い始めていることに気づいた。

本作では、二体の彫像をそれぞれ複数の角度から撮影し、それらを組み合わせて一つの像として描いている。

初めて見ること、見慣れること、そして既に知っているものとして見過ごすこと。本作は、その間で変化していく自分自身の「見る」という行為をもとに制作している。

景色を「風景」として見る

2021年、奈良県天川村で開催された「MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館」への参加をきっかけに、人が目の前の「景色」をどのように「風景」として認識するのかを考えた。地域にまつわる様々な話を聞く中で、その方法の一つとして「見立て」という行為に着目した。「見立て」によって、見知らぬ「何か」は特定の「何か」として認識され、意味を持ちはじめる。

私はこの場所に、古くから人々が行き交い、親しみ、畏れてきた天川の山々を見た。縦に伸びる木々や苔むした倒木を山脈に見立て、森の中に複数の色面を配置した。緑から青、白へ移るグラデーションは、山、空、雨上がりの森から立ち上がる水蒸気やもやを抽象的に表している。

身体で場所を知る

《奥の稜線》以降も洞川を訪れ、雨上がりの山から立ち上がる水蒸気やもやについて考え続けた。山を歩く中で、木々や苔、石、土から水分が立ち上がり、自分の身体からも同じように水蒸気が生まれていることに気づいた。

対話を重ねる中で、空気に含まれる水分は「波」のように震えながら身体の表面=肌に触れ、私たちはその感覚によって、自分がいる場所を認識しているのではないかと考えた。

本作では、洞川の山々を示す等高線を「波」として、建物のガラスに直接描いた。ここでの「表面」はガラスではなく、環境に触れる私たちの身体の表面を意味している。

Scene — 人と場所

《Scene》では、人々の姿や移動を、その場所を捉えるための手がかりとして描いている。2016年、別府では、かつて港から温泉地へ向かった人々の流れに、現在の別府で見かけた、あるいは出会った人々の姿を重ねた。現在の街に過去の時間を重ねながら、人の移動を通してその場所を捉えている。

2019年、大分市中心部で開催された「回遊劇場 SPIRAL」では、街を歩きながら作品を巡るという芸術祭の性格から、人々の動きが行列となり、やがて道のようにつながっていく姿を描いた。壁面に近い色と艶のある塗料を用いることで、光や見る位置によって人物像の現れ方が変化する。

通り過ぎる風景

車窓からの風景やスクリーンに映し出される映像、行き交う人々など、日常には繰り返し出会う「通り過ぎていく風景」がある。

そこでは、スクロールするようにイメージが連続し、反復しているように見えながら、その一つひとつは異なる出来事として現れる。しかし、それらは私たちと強く関係することのないまま次へと移ろい、身体に深くとどまることなく過ぎていく。

本作では、そうした「関与しきらない知覚」の状態に注目している。